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論理的であるとはどういうことか。芸術作品において(あるいは人間の行動それ自身を含む、人間の文化すべてにおいて)論理とはいかなる働きを持つのか。暫定的な目安をあらかじめ書き記せば、論理とは、空間的位相に時間的な階層を持ち込むこと。あるいは時間的な位相に空間的な階層を持ち込むことにほかならない。「二つの場所に同時に立つことはできない」と「時間を巻き戻すことはできない」という二つの文は、論理がまとう階層性を端的に示している。
例えば、「人間は死ぬ 草は死ぬ ゆえに人間は草である」という論理の誤謬は、死ぬものがすべて草であるとは限らない、と思い起こせば、すぐに了解できる。すなわち「死ぬもの」という集合は草や人間という集合よりも大きい。大きいものの中に小さいものを入れることができるが、小さいものの中に大きいものを入れることはできない。より正確に述べれば、a、b、二つの事物があり、aのすべてはbに含むことができるが、bのすべてはaに含むことができないとする。この不可逆性が生じるとき、bはaよりも大きいという。大小は空間的な概念のように見えるが、実は時間的な順序を含んでいる。50キロの金塊から30キロの金塊を作り出すことは容易だが、30キロの金塊から50キロの金塊を作り出すことはできない。あるいは反対にマラソン走者は中間の30キロ地点を通過せずにゴール(42.195キロ)に到達することはできない。おおよそ美術、音楽、文学、建築、映画というジャンルの違いを超えて、芸術作品の形式は、こうして論理を論理として成立させるための条件、順序構造(ORDER)なしに成立することはあり得ない。その意味であらゆる作品の生成は、制作者がそれに自覚的であろうといまいと論理的であり不可逆的である。 むしろ問題は、自らが従っている論理を直視せず、まったくそれと離反した弁解を「論理」という名目で論じたてることにある。例えば作品を──例えば音楽作品を──形式的に考察しようとしたとき、陥りやすいのは、当の音楽を音楽として成立させているはずのもの=時間という不可逆性を当の形式から外してしまうという過ちである。なぜ実際に演奏しなければならないのか。いわゆる「形式的考察」は、こうした作品が存立するための条件である、存在論的な差異を同一性に還元してしまうのである。形式的考察からこぼれ落ちてしまうこの差異を、個々の作品の差異と考えるのは単純すぎる。捉え損ねたものは、なぜその曲が、その順序で、その時間を掛け演奏されなければならないのか、その演奏が現象していく過程そのものが持った順序構造だったといわなければならない(美術、建築において、いわゆる古典主義は、この不可逆性を消去しようとして、かえって自身を存立させるための論理を失い、死んだ形式=形骸(キッチュ)へと転落した)。作品が持つ実際の形式とは、この順序構造のことであり、楽譜はこの構造こそを指示するために書かれるはずであった。あらゆる順序であれ書き込むことができる楽譜、あるいはどのように聞くこともできるCDを作ることは、音楽を作ったことにはならない。それはむしろ楽器を作ることと変わりない。楽器は演奏されるとは限らず、演奏されなければ、ただの物体である。
例えば、「トイレは部屋である。台所は部屋である。ゆえにトイレは台所である」という論理があるとしよう。現代の建築事情を見る限り、これは可能だと見なされているとみてもいいかもしれない。例えば部屋だけが現実的に実在するのであって、「トイレ」や「台所」という属性は事後的な使用によって規定されるに過ぎないという見解である。これを先ほどの誤謬論理に当てはめると、「草」であるか「人間」であるかは事後的な問題であって、存在するのは「死」だけだということになる。「死」において、確かに「人間」は「草」にも変貌するだろう。しかし「トイレ」でも「台所」でもない、いかなる属性も持たない「部屋」は「部屋」といえるのかという問いはありえる。この問いは、「もともと草でも人間でもなく、動物でも植物でもない、ただの『死』というものはそもそも存在し得るのか」、という問いと再び同型である。(昨今の建築界では、確定的な機能を持たぬ空間!を多機能、多目的スペースなどと称するが、それは空間の死と同意である)。そして、もちろん実は、いかなる属性も持たない「部屋」を作り出すことは、論理的正当性を持ち得ないし、作ることもできない(くりかえせば、部屋=空間は、建築の「死」において初めて現れる)。なぜなら、実際は、「部屋」の属性が「トイレ」や「台所」なのではなく、「トイレ」や「台所」の属性が「部屋」(空間)だからである。言い換えれば、ここで「部屋」(空間)とは、「トイレ」と「台所」に共有される属性であることにおいて、例えば「水回り」と同じ程度の抽象性、一般性に留まる概念に過ぎないということである。「部屋」や「水回り」は、「トイレ」や「台所」よりも上位概念であると見なせるが、上位概念は下位概念に支えられることなしに、それ自身では存在し得ない。平地に建つ限り、二階は一階の上にしか存在し得ないというのと同じ自明の理である。同じような誤謬論理は、建築でよく言われる「内部空間と外部空間の区分の消去(あるいは浸透)」という言葉にも見出せる。〈内部空間と外部空間の区分〉というものこそ当の建築が作り出したものなのだから、これは論理として自己撞着である。問うべきは内部と外部という非対称的な分節をなぜ作り出さなければならなかったかであり、本来不可逆的なこの問いを、可逆的であるかのように転倒させ論じるのは欺瞞というほかはない。その論理によって残るのは、あらかじめ何も建てなければいい、という自明の理だけである。あるいは、より直接的に、内部も外部の区分もなかった敷地=大地こそ、建築が到達すべき(建築すべき)最終目的だったということになる。(こうした誤謬を取り繕うために、建築はつねに美的判断と呼ばれるものを、導入してきた。〈多目的スペース〉も、〈内部空間と外部空間の融合〉も〈空間〉そして〈死〉と同じく美学的な仮象にすぎない)。
現実的なものとは論理的なものである。すなわち現実は非対称的、不可逆的な論理を強制する。そして、われわれを取り巻く、現実のおおよそは人為的なものだ。例えば、技術は必ず遵守すべき論理を持ち、つまりは厳密に運用すべき順序を規定している。原木のまま家を建て、建てた後から製材することはあり得ないし、室内内装の後、屋根を掛けるということもありえない。この意味で論理はザッハリヒカイトな態度によく馴染むが、それは材料の性質ではなく技術的な制約に従うゆえである。ゆえにトイレ/台所、食堂/寝室の非対称的な分節、あるいは内部/外部という分節が消去されるとすれば、「空間」などという曖昧な上位概念ではなく、残念ながら、「水回り」とか「ドライエリア」といった技術的/機能的な概念によるだろうと予想がつく。さらに、「一人暮らし」「二世代同居」といった世俗的概念、加えて、「六つ子出産」「一家惨殺」という出来事を含む概念こそが、最も直裁に既存の建築の論理分節を消去、破壊する力を持っていたことは建築家なら誰もが知る事実だろう。つまるところ、多くの芸術作品と同様に、建築の形式は、建築を取り巻く世俗的──現実的な諸条件としての論理=順序構造に規定されてしまっている。諸芸術の形式を決定している順序構造は、現実的な階層構造をそのまま映し出すだけで終わることがほとんどだということである。すなわち下部構造としての生産機構、そして上部構造としての生活様式。最終的には、これらの階層はおしなべて政治的な領域に包含されてもしまう。例えば、土地がなければ建築は建たない。上物である建築が敷地を決定するのではなく、あくまでも、いかなる建築であれ建築可能とする土地こそが建築を決定している。建設可能な土地と建設不可能な非土地を区分するものは、言うまでもなく政治的な決定である。(実際、大規模な土地開発に必ず伴う──その土地に意味=経済的刺激を与えるために──博覧会では、建築はそこに利用可能(建設可能)な土地があることをデモンストレートする代理物、仮設物としての役割だけを担わされている。個々の建築は、土地と呼ばれる政治的、経済的な決定フレームに付随する、交換可能な属性でしかないというわけだ。ここで、建築の論理は既成の政治的論理を多少カモフラージュしつつも、ただ反復、代演しているに過ぎない)。こうして、建築において、もっとも明確に現れるのは、空間的な特質でも物質的条件でもない、むしろ、その建築を建築として拘束する(あるいはその建築が体現している)論理的制約であり論理的な特異性である。建築は論理という不可逆的な過程、非対称的な階層を、文字通りの順序構造=orderとして実体的に示す。
こうして、建築の秩序(順序構造)が、生きた現象としての秩序、すなわち現実的な使用の場面で現れる属性に依拠するのだとすれば、建築は、ことごとく世俗的な論理的制約、秩序を体現するものにすぎないと言えるだろう。その意味で建築は法そのものである。建築はまず、われわれの生を仕切る、明示された、あるいは暗黙のこうした様々なレベルの法に向き合い、それらの齟齬や行き違いを調整し、その裁決を、物理的な秩序=法として自立させる。そして法の本質が、それを制定した人物ですら、その法に従わなければならない(自ら決めた法によって裁かれ処刑される)ことにあったように、建築はそれ自体が主体(主人)となって住み手、使い手の気まぐれに抵抗し、それを統治する規範と化す。それが嫌であれば、なぜ建築を作らなければならなかったのか?(なぜ芸術作品は作られなければならないのか)?
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* いかなる主体の恣意にも抵抗するモノ=ORDER。カール・ポパーは、真に論理的有効な言明はそれを覆す反証可能性を示し、かつ含んでいるとした。たとえば「雨が降るか降らないかどちらかだ」という言明に反証可能性はなく(降っても降らなくても成立する)正当な科学的メッセージ足りえない。だから「何にでも使える多目的な空間」も、同じく正当な科学的メッセージ足りえない。それらは単に美学的言明にすぎない。つまり恣意的思い込みにすぎない。ポパーによれば、それを固定しようとすることこそが全体主義的権力の本質である。
対して「雨が降る」という言明は同時に、「雨が降らない」可能性(反証可能性)を示し、かつ含んでいることで科学的に有効なメッセージたりうる。
つまり建築とよばれるORDERにおいても、それは思い込み(誤謬論理)の固定であってはならない。たとえば建築に屋根があるのは、ただ雨が降るのをよけるためではない。むしろ雨が降っているときに雨が止む可能性を、雨が降っていないときに雨が降る可能性を示すためにこそある。つまるところ建築という存在の正当性は〈いま、ここ〉での判断基準を超える別の判断基準(反証可能性)がありうることを確保すること、すなわち空間、時間という人間的(世俗的)枠を超越することにだけに賭けられている。そうである限り、人のいた空間、時間が消えても(物質的に人が消えても)、人間とよばれなければならないものが残る希望=可能性を残すのである。そこではじめて建築は、人間の倫理そのものを体現するものとなる。(ありうべき法の姿でもある。法は法そのものを否定し、抵抗する権利、可能性を確保することによってこそ、その正当性を保証される)。
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